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2007年09月26日

シティズンシップ教育と宗教教育

最近、論文の方向性が大体かたまってきた。
題目は「市民が育つ空間デザイン(仮)」とか。

 元々、この論文を書く根本の問題意識は「公共益を考えることができる人材をどう育てるのか?」とう問い。しかし、公共益を調べていくうちにシティズンシップ教育、道徳教育、宗教教育など複数の領域にまたがっていることに気がつく。その中でもシティズンシップ教育は他の2つの領域も包括した広いものであるということで現在採用している。というかただ単に最近人気らしいということと、カタカナ文字を作り出して道徳教育や宗教教育の悪いニュアンスを書き換えている感が良い意味でも皮肉的にも好感がもてる。イメージが悪くなったら会社名を書き換えて存続していく一種のあれだが、そのしぶとさは要は使いようである。

 まあ、冗談はさておきシティズンシップ教育にした理由はちゃんとある。まず知り合いのY君はシティズンシップ教育を「市民としてのあるべき徳」を養成する方向性と民主主義制度をしっかり整えるの2つの流れがあると分析していたが、現時点の日本においては妥当な選択肢だろうが、どちらもそれだけではあまり希望がない。現時点ではこの2つが限界かもしれない。もっとも後者の方は絶対に実現させねばならぬことだが。しかし、僕は理想主義者であるので3つ目を実行しなければならない。それはハンナ・アレントも指摘しているようにカントが『啓蒙とは何か』で述べた自ら考える人を育成することだ。

 つどのつまり、いくらこれと決めた道徳を教え込もうが、制度を整えようが、自ら考え批判する人材が育たなければプラトンの言うように民主主義は衆愚政治に陥る。一つの道徳なんて明日日本がファシズム化したら教える道徳も一瞬で変わるだろうし、いくら制度を整えても結局、権力者のいいようにメディアコントロールされるだけだ。なんつったって今やセブンイレブンにはエロと人が死んだ情報が氾濫し、すでに脳は麻痺状態にあるわけだから。まあ、プラトンはそこで哲人政治を掲げるが、カントはガチンコで「みんな自分でしっかり考えろ!」と言う。いいですね、こういうガチンコ感は好きです。こういう状態が有って初めて制度が生きてくる。もちろん制度の整備は平衡して行わなければならないが。

 そこで、では自分でしっかり考える人材を育成するためにはどうしたらいいのっちゅう話しですが、僕個人としてはその解決策に比較思想・宗教教育にあると考えている(シティズンシップ教育の中の一環として)。『世界のシティズンシップ教育―グローバル時代の国民/市民形成』の中でインドの紹介のとこなんかが良い線いってる。理由についてはまだよく分からない。ただ直観がそう言っている。だから間違いないはずだ。自分の軸をいかにつくるか?自分の軸をみうしなっちゃーいけねーよと思う。そのために比較をする。カトリックも創価学会も資本主義の精神もイスラム、ポストモダンも比較する。それで、良いところは良いと言い、悪いとこは悪いと言い違うことを尊重しあう訓練をしなければならない。結局、だれも現在の資本主義経済の根っこにいかなる思想と宗教観があるのか中学校、高校と教えてくれないし、やることといえば受験対策ぐらいでせっかくの思春期に考える能力の発達を阻害している。

 だけど、これをいざ実行に移すとなると高度な専門知識を持つスタッフが必要だ。おそらく、博士課程クラスの。そこで、このような授業を実施するには専門の研究機関からの講師派遣のシステムにするしかないだろう。

 という感じですが、実はこの論文は「空間デザイン」という趣旨なので、ソフトだけでなくハード的なもののデザインおよびプロセスデザインについて書かなければ将来の職業に直接関連してこない。しかし、比較思想・宗教教育を支援するハードとはまちのレベルでも建物のレベルでもいったいいかなる姿であるのだろうか?実はここで現在行き詰まっている。

 モノを比較するときにハード的なアプローチとしては、1つはミュージアム。まちづくりにはエコミュージアムとして登場していることから可能性はどうか。彫刻やアートなどのモニュメントもそのたぐいか。ただ、國學院の井上順孝先生が指摘するように宗教的なハードものは現在風景化しててリアリティがないとおっしゃってたことからもどの程度効力があるか。
 
 2つ目は複数の機能を有する場所をつくる(by『アメリカ大都市の死と生』ジェーン・ジェコブス著)。つまり、宗教施設を再び別の機能を持つように再デザインする。たしか、アメリカなどでは教会を何か別の遊び場に再利用する流れがあるとかないとか。得体の知れない新宗教などの施設はちょっと怖いが。この考え方は可能性があると思う。そういえばお寺をロックコンサートの会場にするとかもこの流れか。だが、その思想の真のフー(正体)に触れるのにはこれで果たして良いのか。

 3つ目はスイミングスクールのように学校とは別の教育施設を作るとかはどうか?代ゼミthinking schoolとか(←う〜む)。私塾みたいな形式だけど要はピアノ教室や公文教室と対等の位置づけか。案外ネーミングが定着すれば意外にいいのでは?一歩間違えば共産圏の更正施設か。。

 4つ目は海外の人とのルームシェアや寮とかでの共同生活を積極的に推進支援する。必修にしたりして。きっかけとしての異文化接触。一緒に生活していれば思想や宗教も触れることが多いのではないのだろうか。はてさて。同時に上記の教育施設機能も併設したりして。。

 うーん、今日はもう寝ます。結局何を書いていたのやら。
posted by チャーリー at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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