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2007年09月22日

最小限住宅

 産業革命後、20世紀を経て現在に至るまで科学技術はものすごいスピードで更新されていったわけでありますが、こと思考、思想の領域においては未だ20世紀前半に提示された考えが十分に練りきらずに、次の思想にある種の“流行現象”であるかのように切り替わってきた経緯があると僕は思う訳ですよ。

 20世紀前半に建築家ル・コルビュジエが投げかけた<最小限住宅>という考えもそのうちの一つであると思います。コルビュジエは「住宅は住むための機械である」という訳ですがこの部分だけ聞くととても人間味が感じられず冷たい感じがしますが、住宅に本当に必要なものだけをどのように組み合わせたら機能的で快適な住まいが出来るのか、その最小単位は何なのかというテーマは今日においても未だ解決されていない問題です。もちろんこのテーマに現在取り組んでおられる方はいらっしゃいますが。

 ですがことの問題はこの<最小限住宅>という単位の管轄範囲が、住宅内だけの範囲ではないといういう点が非常に興味深い点であると思います。コルビュジエの最後はどこであったのか?それはカップ・マルタンの小屋というとても小さな小屋でありましたが、この小屋が<最小限住宅>を意識して作られたのは疑いも無い事実です。しかし、なぜあの場所にたてたのかという問いは<最小限住宅>というテーマに照らし合わせてみると実に興味深い。

 つまり、コルビュジエは<最小限住宅>というテーマを考えたときにあの環境もそれを成り立たせる一要因であると言っているようなモノなのです。しかし、カップ・マルタンの景観はきわめて雄大で美しく、もしこれを<最小限住宅>の基準とするならば、現在の東京に立ち並んでいる住宅のほとんどは基準値に達していないことになります。

 ここで一つの課題が浮かび上がります。<最小限住宅>を考えるにあたって住宅内の空間の基準を考えるのはもちろんですが、その外で最低限の基準を考える試みは絶対に必要なことであると思います。そこには当然景観的で物質的な要因も入るでしょうが、例えば、そのまちに「音楽」というのはどのような位置づけか?それは<最小限住宅>においてそれは必要なのか?どうでもいいのか?「教育」はどうなのか?どんな教育でもいいのか?というように人が”住む”と言ったときに必然的に付随してくる様々なものの存在。それは食べ物であったり、医療であったり。

 このように考えて必然的に浮かび上がるのが<最小限集落(都市?村?)>という考え方。ある集落において最低限幸福に、快適に生活するためにはいったい何が必要なのか?このようなことを今後書いていこうと思う次第であります。

 
posted by チャーリー at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市・建築・地域・教育うんぬん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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