メニュー(お好きなのをどうぞ〜!)

2006年03月08日

論理と仮説の不思議な関係

 論理というのは卑怯な方法であると感じるわけであります。なぜなら「なぜなら」でごり押しに迫り、それがあっていようと間違っていようと、それが正しいかのごとく振る舞ってくる。「なぜなら」で人は納得してしまう。なぜなら、人は「なぜなら」を欲しているからだとこのように。

 一般的に「なぜなら」の後で語られる部分は“ただ一つ”ではなく複数あり相対的なものだ。いろんなバリエーションがあり正解というものはないかもしれない。だが、どれをとっても「なぜなら」と言われると納得の方向に向かわざるをえない。論理は悪魔のようなツールだ。それはきっと「美しいから」ということと無関係ではないだろう。

 もし、「なぜなら」が抗い難いものだと「仮定」すると、その出発点である「仮定」・「仮説」がもし間違っていたら、その論議は全部デタラメのものを享受することになる。

 私たちは、日頃あたりまえのように論理・論理というが、その論理の出発点・前提が間違っていたらということに気がつかないことが往々にしてある。数学では普遍の「定義」というものが存在するが現実には普遍ではなく相対的な「定義」があるだけだ。とこのように「仮定」すること自体間違っているのかもしれない。それを「論理」でごり押しに正当化しているだけだ。

 私たちは日頃多くの分化された学問の世界に住んでいる。個々の学問は固有に自明の理としている「定義」を持ち、それを「前提」として議論を進めている。しかし、その「前提」は他の学問の分野にいくと必然的に違う可能性がでてくることがある。そう、「前提」は普遍ではないのだ。

 だから、私たちはその「前提」に一度疑いの目をかける必要があるように思われる。「なぜなら」それが間違っているかもしれないからだ。その違いを見抜くためには多くの「前提」があることを知らねばならぬ。だから、一般教養は必要だし、他の学問も横断的にやる必要性がでてくる。そう、世の中は分化されていなくつながっているのだ。とこれも「仮定」なので必ずしも“正しい”とは限らない。。。

posted by チャーリー at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中の疑問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/14396803

この記事へのトラックバック
メニュー(お好きなのをどうぞ〜!)
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。