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2007年09月30日

丸山欣也先生の授業スタート

 さて、土曜日から世界的にも有名な丸山欣也先生の授業が始まった。土曜日と言うことをいいことに予定では1時50分から17時までのはずが、結局20時くらいまでやることに。。内容は石ころ3つを見つけてきて、その3つの石で空間をつくり、その内部空間をスケッチするというもの。

 丸山先生いわく、現代の流行などのデザインに流されるのではなく、自然本来がおりなす造形をしっかり観察すれば、驚くほど必然性と多様性、美的なるデザインが学べるとのこと。なるほど、わかる気がするが、自分にはまだこの感覚が自分の中で育っていないため、よくわからない。ここは、ただひたすら観察してみてから判断しようと思う。

 それにしても、丸山先生という人は実にいい風を持っている人だ。普段は基本的に失礼なのだが、仕事の話になると「正しいことをやれ」と言う。自分は正しいと思う仕事しか受けない。これまでもそうやってきたと。何が正しいのか、いったい正義とは何なのか?疑問点はいくらでもある。しかし、この先生は間違っていない。そういえば自分は就職活動の時、どの会社にも「自分の正義を追求したい」と必ずいっていた。結果はどの会社も面接相手が社長に近くなればなるほど反応は悪かった。なつかしいなぁ。でも、自分はそれでいいと今も思っている。正しいことをして生きていけない社会はどこかおかしい。

 丸山先生とはそういった意味でかっこいい大人だ。自分の人生の中で「正しいことをやれ」といってくれたのはマンガや映画、小説の世界をのぞいた現実社会ではこの先生が初めてだ。そういう大人はこれから育つ後世の子どもたちにはとっても大切な存在だと思う。なんだか「正しいことをやっていちゃ、食っていけない」という台詞には聞き飽きた。

 今日までの公開だが、Yahoo動画で「妖怪人間ベム」が無料公開されている。このアニメは教育という観点で非常に大切な視点を与えてくれる。その中で「人として生きるには、正しく生きなければならない」という台詞は印象的だ。このアニメは1968年(昭和43年)10月7日から1969年(昭和44年)3月31日まで放映され、僕が産まれる20年ほど前の作品だが、当時はどのような時代背景なのかわからないが、当時の大人(つまり今のおじいちゃんたちの世代)は何らかのメッセージを当時の子どもたち(今の親世代)に伝えようとしていたのかもしれない。

 まあ、そういうことで、丸山先生が失業しない限り、自分もなんとかなるさと思う。これは実に有難いことだ。自分の人生が保証されたような感覚(もちろん努力なしには成り立たないのだが)。やはり、かっこいい大人は世界に光をもたらしてくれるものだ。自分は後世に対して、はたしてこのままだとどんな土産を残せるのかと、ある時考えたことがあるが、「正しく生きる」という生き様を残すのなら、お金持ちにならなくても、自分の子ども、孫にいい土産ができる。うん、なかなか悪くない。
posted by チャーリー at 18:54| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月26日

シティズンシップ教育と宗教教育

最近、論文の方向性が大体かたまってきた。
題目は「市民が育つ空間デザイン(仮)」とか。

 元々、この論文を書く根本の問題意識は「公共益を考えることができる人材をどう育てるのか?」とう問い。しかし、公共益を調べていくうちにシティズンシップ教育、道徳教育、宗教教育など複数の領域にまたがっていることに気がつく。その中でもシティズンシップ教育は他の2つの領域も包括した広いものであるということで現在採用している。というかただ単に最近人気らしいということと、カタカナ文字を作り出して道徳教育や宗教教育の悪いニュアンスを書き換えている感が良い意味でも皮肉的にも好感がもてる。イメージが悪くなったら会社名を書き換えて存続していく一種のあれだが、そのしぶとさは要は使いようである。

 まあ、冗談はさておきシティズンシップ教育にした理由はちゃんとある。まず知り合いのY君はシティズンシップ教育を「市民としてのあるべき徳」を養成する方向性と民主主義制度をしっかり整えるの2つの流れがあると分析していたが、現時点の日本においては妥当な選択肢だろうが、どちらもそれだけではあまり希望がない。現時点ではこの2つが限界かもしれない。もっとも後者の方は絶対に実現させねばならぬことだが。しかし、僕は理想主義者であるので3つ目を実行しなければならない。それはハンナ・アレントも指摘しているようにカントが『啓蒙とは何か』で述べた自ら考える人を育成することだ。

 つどのつまり、いくらこれと決めた道徳を教え込もうが、制度を整えようが、自ら考え批判する人材が育たなければプラトンの言うように民主主義は衆愚政治に陥る。一つの道徳なんて明日日本がファシズム化したら教える道徳も一瞬で変わるだろうし、いくら制度を整えても結局、権力者のいいようにメディアコントロールされるだけだ。なんつったって今やセブンイレブンにはエロと人が死んだ情報が氾濫し、すでに脳は麻痺状態にあるわけだから。まあ、プラトンはそこで哲人政治を掲げるが、カントはガチンコで「みんな自分でしっかり考えろ!」と言う。いいですね、こういうガチンコ感は好きです。こういう状態が有って初めて制度が生きてくる。もちろん制度の整備は平衡して行わなければならないが。

 そこで、では自分でしっかり考える人材を育成するためにはどうしたらいいのっちゅう話しですが、僕個人としてはその解決策に比較思想・宗教教育にあると考えている(シティズンシップ教育の中の一環として)。『世界のシティズンシップ教育―グローバル時代の国民/市民形成』の中でインドの紹介のとこなんかが良い線いってる。理由についてはまだよく分からない。ただ直観がそう言っている。だから間違いないはずだ。自分の軸をいかにつくるか?自分の軸をみうしなっちゃーいけねーよと思う。そのために比較をする。カトリックも創価学会も資本主義の精神もイスラム、ポストモダンも比較する。それで、良いところは良いと言い、悪いとこは悪いと言い違うことを尊重しあう訓練をしなければならない。結局、だれも現在の資本主義経済の根っこにいかなる思想と宗教観があるのか中学校、高校と教えてくれないし、やることといえば受験対策ぐらいでせっかくの思春期に考える能力の発達を阻害している。

 だけど、これをいざ実行に移すとなると高度な専門知識を持つスタッフが必要だ。おそらく、博士課程クラスの。そこで、このような授業を実施するには専門の研究機関からの講師派遣のシステムにするしかないだろう。

 という感じですが、実はこの論文は「空間デザイン」という趣旨なので、ソフトだけでなくハード的なもののデザインおよびプロセスデザインについて書かなければ将来の職業に直接関連してこない。しかし、比較思想・宗教教育を支援するハードとはまちのレベルでも建物のレベルでもいったいいかなる姿であるのだろうか?実はここで現在行き詰まっている。

 モノを比較するときにハード的なアプローチとしては、1つはミュージアム。まちづくりにはエコミュージアムとして登場していることから可能性はどうか。彫刻やアートなどのモニュメントもそのたぐいか。ただ、國學院の井上順孝先生が指摘するように宗教的なハードものは現在風景化しててリアリティがないとおっしゃってたことからもどの程度効力があるか。
 
 2つ目は複数の機能を有する場所をつくる(by『アメリカ大都市の死と生』ジェーン・ジェコブス著)。つまり、宗教施設を再び別の機能を持つように再デザインする。たしか、アメリカなどでは教会を何か別の遊び場に再利用する流れがあるとかないとか。得体の知れない新宗教などの施設はちょっと怖いが。この考え方は可能性があると思う。そういえばお寺をロックコンサートの会場にするとかもこの流れか。だが、その思想の真のフー(正体)に触れるのにはこれで果たして良いのか。

 3つ目はスイミングスクールのように学校とは別の教育施設を作るとかはどうか?代ゼミthinking schoolとか(←う〜む)。私塾みたいな形式だけど要はピアノ教室や公文教室と対等の位置づけか。案外ネーミングが定着すれば意外にいいのでは?一歩間違えば共産圏の更正施設か。。

 4つ目は海外の人とのルームシェアや寮とかでの共同生活を積極的に推進支援する。必修にしたりして。きっかけとしての異文化接触。一緒に生活していれば思想や宗教も触れることが多いのではないのだろうか。はてさて。同時に上記の教育施設機能も併設したりして。。

 うーん、今日はもう寝ます。結局何を書いていたのやら。
posted by チャーリー at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

最小限住宅

 産業革命後、20世紀を経て現在に至るまで科学技術はものすごいスピードで更新されていったわけでありますが、こと思考、思想の領域においては未だ20世紀前半に提示された考えが十分に練りきらずに、次の思想にある種の“流行現象”であるかのように切り替わってきた経緯があると僕は思う訳ですよ。

 20世紀前半に建築家ル・コルビュジエが投げかけた<最小限住宅>という考えもそのうちの一つであると思います。コルビュジエは「住宅は住むための機械である」という訳ですがこの部分だけ聞くととても人間味が感じられず冷たい感じがしますが、住宅に本当に必要なものだけをどのように組み合わせたら機能的で快適な住まいが出来るのか、その最小単位は何なのかというテーマは今日においても未だ解決されていない問題です。もちろんこのテーマに現在取り組んでおられる方はいらっしゃいますが。

 ですがことの問題はこの<最小限住宅>という単位の管轄範囲が、住宅内だけの範囲ではないといういう点が非常に興味深い点であると思います。コルビュジエの最後はどこであったのか?それはカップ・マルタンの小屋というとても小さな小屋でありましたが、この小屋が<最小限住宅>を意識して作られたのは疑いも無い事実です。しかし、なぜあの場所にたてたのかという問いは<最小限住宅>というテーマに照らし合わせてみると実に興味深い。

 つまり、コルビュジエは<最小限住宅>というテーマを考えたときにあの環境もそれを成り立たせる一要因であると言っているようなモノなのです。しかし、カップ・マルタンの景観はきわめて雄大で美しく、もしこれを<最小限住宅>の基準とするならば、現在の東京に立ち並んでいる住宅のほとんどは基準値に達していないことになります。

 ここで一つの課題が浮かび上がります。<最小限住宅>を考えるにあたって住宅内の空間の基準を考えるのはもちろんですが、その外で最低限の基準を考える試みは絶対に必要なことであると思います。そこには当然景観的で物質的な要因も入るでしょうが、例えば、そのまちに「音楽」というのはどのような位置づけか?それは<最小限住宅>においてそれは必要なのか?どうでもいいのか?「教育」はどうなのか?どんな教育でもいいのか?というように人が”住む”と言ったときに必然的に付随してくる様々なものの存在。それは食べ物であったり、医療であったり。

 このように考えて必然的に浮かび上がるのが<最小限集落(都市?村?)>という考え方。ある集落において最低限幸福に、快適に生活するためにはいったい何が必要なのか?このようなことを今後書いていこうと思う次第であります。

 
posted by チャーリー at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市・建築・地域・教育うんぬん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月20日

軽井沢リゾートマンション調査

 今現在、軽井沢のリゾートマンションの資料整理中ですが、良いマンションってのはなんなんでしょうね。マンションが悪だとは全然思わなくなってきた今日このごろ。

 というのも東京などにいるとお化けのように高いマンションがにょきにょきしてますが、こと軽井沢に関して言えば2階までのマンションがほとんど。というのも規制をかけているからなのだが。ヨーロッパなどは低層(4階)ぐらいの集合住宅がまちの美観を形成していることを考えれば中々軽井沢のマンションも悪くないはず。

 なのに地元住民からは批判の声が。批判の一つに道路に近いというのと木を伐ってしまうというのがあるのですが、じゃあ木を伐らずに道路から一定幅フィードバックすればそれで良いマンションなのか?そもそも良い建築というのは何なのか。特に環境などに配慮した良い建築とは何なのか?ソーラーパネルをつければ良いのか?地元の材料を使えば良いのか?そもそもコンクリートという材質が良くないのか?しかし、木造の構造では防火に対してどうするのか?しかし、一方で防火に強い木材もある。

 こんなことを書いていると自分に建築の知識がないために判断がつかない点が多い。やはりもっと勉強しよう。

[コメント:ゆう]
 嫌な言い方すると、地元の人が反対する時って、土地によっては「知らない人がたくさん入ってくる」こと自体に抵抗があることが原因になる場合があるんだよね。 それに「景観とかも悪くなるし」と建物自体の問題が後付的にくっついたりすることもある。 一軒家ばっかりの地域だと「マンションがある」こと自体が異様に感じることもあるんじゃないかな。

日本人は保守的だからね。

意外と建物の要素要素の問題じゃなくて、心理的な影響が問題だったりして。

いい建築は、きっと人間関係がよくなる建物なんだよ。
なんてことを考える今日この頃。


[コメント:ちゃーりー]
 心理的な影響っていうのはまず間違いなくあるだろうね。だけど、この軽井沢の件に関しては面白いのが、なんとなく規制の方向からいって、ひょっとするとマンションが建つことによって森の樹木を手入れさせる管理人を増やす里山的な発想が盛り込まれつつある動きが見られることなんだなー。つまり「マンション建設→森管理人増」のような図式。これって、結構面白いと思わない?
posted by チャーリー at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市・建築・地域・教育うんぬん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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長らくこのブログは更新していませんでしたが、何を血迷ったかまた書くことにします。ですが、前とはいささか状況が異なっています。楽器のこと以上にたくさんいろいろ書き記すことがでてきました。ということでよろしくお願いします。

ちなみに私は現在、早稲田大学芸術学校都市デザイン科1年という席をおいており、都市デザイン、地域づくりなどを研究しています。
また、早稲田大学地域教育系サークル
だがしや〜遊びと学びのネットワーク〜
http://dagashiya-network.seesaa.net/
というサークルにも属しており、地域と教育について考えております。

このような活動に向かわせた背景と致しましては、このブログに書いてきたような音楽が深く影響しており、その意味を込めてこのブログで日々の活動を更新することに致しました。
posted by チャーリー at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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