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2007年10月13日

黒川紀章さんが亡くなった。。

 今晩は忙しい。明日までにいろいろ資料をつくらねばならない。
しかし、帰りの電車の中で建築家黒川紀章氏が亡くなったとの情報を読んだ。

 ああ、残念だ。

 率直に言って、僕は黒川紀章氏が好きである。尊敬している。彼の下で1回働きたかった。共生新党に入ろうと思った。

 僕は彼の作った建築に対して全面的に賛同しているわけではない。しかし、彼の生き方には最大限の賛辞を送ると共に自分もそのように生きてみたいと常々思う。
彼は思想家だ。現在の日本において大変希少な思想家である。僕は彼の自伝を読んだ。それは、後に生きる世代に大変なエールを送っている。生き方というエールを。

 何かを強く主張するということは怖いことだ。それは間違っているかもしれないし、もう反発にあうかもしれない。だけど、おかしいと思うことはおかしいと言い。間違っていることは公私問わず間違っていると言う。たとえ、そうしたことによって万人受けをしないとしても。自分のことだけでなく国のことを考え、世界のことを考え、場合によっては命をかけることもある。“正しく”生きるべきだと。そういった意味で彼は武士だ。

今の日本には思想家はほとんどいない。思想家とは生き方だ。より良い世界にしていくために自分なりに真剣に考え、反対や軋轢をうけながらも相対化を超えて価値や概念や美を「〜である」「〜が必要だ」と断言する。

 ルソーやマルクス、カント、千利休、坂本竜馬などはもはや「なぜ」の領域を超えている。そこにあるのは「である」だけだ。よくよく考えてみればこれらの人物の主張や行動には「理由」がない。もっともらしい説明はしてはいるが、いざとなると「〜である」や「べきだ」になる。だけど、奇妙なのは今日においてもこの「である」はいささかも輝きを失わない。もちろん、間違っていることも多々あるし、現実には機能しないものもたくさんある。だけど、その主張は確実に大いなる力強さとなって世界を覆っている。そこには共通して、世界への慈愛が満ちている。

 私たちはいつしか、自分の利益や権利を主張し、世界に対する慈愛とそれをよりよい方向にもっていくために真剣に考え自分の命を燃焼させる人の道を忘れている。相対化の波はさけられず、今述べた主張はいずれ繁殖しすぎて、別の主張に食われながら中庸に戻る波が起こるかもしれないが、それでもなお「である」を押し通す勇気が後世まで石碑となって残り、それが時代の活力となってシステムは新陳代謝する。

 黒川氏は高度成長期においても、昨今の選挙出馬の折にも一貫して、自分の主張を何の迷いも無く押し通した。高度成長期において共生思想・新陳代謝・中間領域という提案は未だその輝きを失っていない。そして、彼はその概念を建築という手法で具体化しビジュアルに見せた。これが思想家の第二の条件だ。具体化させること。

 具体的に提案することは、もっと反対意見がでる。より粗が目立つ。しかし、それでも世界に向かって発信する勇気が世界を動かす。

 ああ、もう時間だ。作業しないと明日は早い。謹んでご冥福お祈り申し上げます。ありがとうございました。
posted by チャーリー at 02:02| Comment(40) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

二酸化炭素・温暖化・環境・農業うんぬん

 先日、手のかかる後輩2人とお茶などしてみたが、なかなかどうして後輩どもも何やらがむしゃらに頑張っているようです。ふと、負けてられないなぁと後輩どもに背中を押される思いでした。2人とも頑張れよ!また、お茶しよー。

 さて、今日はテレビ番組の「プロフェッショナル・仕事の流儀」でCO2排出権ビジネスを先駆的に手がける三菱UFJ証券クリーン・エネルギー・ファイナンス室主任研究員の吉高まりさんが紹介された。

 そこで、過去中途半端に調べた京都議定書の「京都メカニズム」に関して、あろうことか夜勤中に調べだした(よくある、よくある)。「京都メカニズム」とは、1997年に京都市で開催された国連気候変動枠組条約第3回締約国会議で採択された「京都議定書」において定められた、温室効果ガス削減をより柔軟に行うための経済的メカニズムで、「クリーン開発メカニズム」(CDM)、「共同実施」(JI)、「国際排出量取引」の3つがある。

 クリーン開発メカニズム(CDM)(京都議定書12条)
先進国が発展途上国と協力してプロジェクトを行い、その結果生じた排出削減量(または吸収増大量)に基づいて発行されたクレジットをプロジェクト参加者間で分け合うこと。そうすることによって投資国(先進国)が自国の目標達成に利用できる制度。
・クレジット名は CER ( Certified Emission Reduction )
・ CER は排出枠として活用可能
・プロジェクトを実施する先進国Aを投資国、プロジェクトが行われる途上国Bをホスト国という
*結果として、先進国の総排出枠の量が増大する

 共同実施(JI)(京都議定書6条)
先進国同士でプロジェクトを行い、その結果生じた排出削減量(または吸収増大量)に基づいて発行されたクレジットをプロジェクト参加者間で分け合うこと。そうすることによって、その削減分を投資国が自国の目標達成に利用できる制度
・クレジットは排出枠として活用が可能
・共同実施で発行されるクレジットをERU(Emission Reducrtion Unit)という
・プロジェクトの実施に協力する先進国Aを投資国、プロジェクトを受け入れる先進国Bをホスト国と呼ぶ
*数値目標が設定されている先進国間での排出枠の取得・移転になるため、先進国全体としての総排出枠の量は変わらないようだ。

 排出量取引(京都議定書17条)
各国の削減目標達成のため、先進国同士が排出量を売買する制度。割当量単位のほか、CER、ERU、また吸収源活動による吸収量も取引できます。

 吉高さんはこのうちクリーン開発メカニズム(CDM)でもって、途上国の環境に配慮した「開発」を促している点において、敬意をはらえる。途上国では、先進国が捨てた劣悪な機器(エンジンなど)がメインの動力になり、国内のインフラを整備しているため、環境と人体に悪影響を与えているのが現実である以上、そこを改善するためにを利用して資金を得て、インフラの改善をするのは限られた資金力(もっとも先進国がそうしたのだが)の途上国にとっては一つの道筋のように思える。

 でもなぁ、吉高さんの仕事には学べる点が多いものの、肝心の「京都メカニズム」に関してはものすごーく胡散臭い気がしてならない。要は先進国が排出量を減らすのが無理だから(とあきらめる立場にたち)、途上国と“一緒”に頑張りましょうという図式がどうにもこうにも。だけど、全面的に悪ではなく確かにこれまでになかったシステム(環境と経済の接合点)であることには変わりないし、現にクリーン開発メカニズム(CDM)によってお金のない国(自治体)の生活者の生活環境が改善されているのは事実として受け容れるべきである。

 まあ、そんなことを考えているうちにやっぱり資本主義的経済システムの根本が良くないなどと根本思考が噴出してくるので、ここはおいといて次は「京都メカニズム」を使えば農業の未来が開かれるのかな…とか仮説を立ててみる。そこで、また調べてみる。

 この仮説を解くためにまず、植物が大気中の二酸化炭素を減らすというと流布している噂を調べてみた。すると、どうやら森林などは二酸化炭素を確かに吸収するが、それと同じくらい呼吸もしているため(森林に住む生物の量も考慮に入れる)、全体としてはトントンぐらいになるようだ。

 なるほど、で調べていくと放出された二酸化炭素は半分近くは海洋と土壌に吸収されていることがわかった。さらに調べていくとオーガニック農業が土壌に二酸化炭素を大気中から隔離する働きに一定の成果をあげていることがあるらしいとのこと(通常の農薬と肥料をバンバンやるのはだめらしい)。どういうことかネット上で判断しているため定かではないのだが、これが確かならオーガニック農業を実施することによって、大気中の二酸化炭素量が減少し、それでもって「京都メカニズム」を活用し、資金を得れば(できるのかな?)、オーガニック農業自体も拡大し、オーガニック農家の生活も潤うという自体になるのか?

 さて、また調べることが増えましたが、ただいま夜勤中につきやむおえずここまでとする。土壌の二酸化炭素吸収能力ね〜。今はほとんどアスファルトだからな。うーん。都市、お金、農業、、、うーん。
posted by チャーリー at 01:56| Comment(0) | TrackBack(6) | 都市・建築・地域・教育うんぬん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

丸山欣也先生の授業スタート

 さて、土曜日から世界的にも有名な丸山欣也先生の授業が始まった。土曜日と言うことをいいことに予定では1時50分から17時までのはずが、結局20時くらいまでやることに。。内容は石ころ3つを見つけてきて、その3つの石で空間をつくり、その内部空間をスケッチするというもの。

 丸山先生いわく、現代の流行などのデザインに流されるのではなく、自然本来がおりなす造形をしっかり観察すれば、驚くほど必然性と多様性、美的なるデザインが学べるとのこと。なるほど、わかる気がするが、自分にはまだこの感覚が自分の中で育っていないため、よくわからない。ここは、ただひたすら観察してみてから判断しようと思う。

 それにしても、丸山先生という人は実にいい風を持っている人だ。普段は基本的に失礼なのだが、仕事の話になると「正しいことをやれ」と言う。自分は正しいと思う仕事しか受けない。これまでもそうやってきたと。何が正しいのか、いったい正義とは何なのか?疑問点はいくらでもある。しかし、この先生は間違っていない。そういえば自分は就職活動の時、どの会社にも「自分の正義を追求したい」と必ずいっていた。結果はどの会社も面接相手が社長に近くなればなるほど反応は悪かった。なつかしいなぁ。でも、自分はそれでいいと今も思っている。正しいことをして生きていけない社会はどこかおかしい。

 丸山先生とはそういった意味でかっこいい大人だ。自分の人生の中で「正しいことをやれ」といってくれたのはマンガや映画、小説の世界をのぞいた現実社会ではこの先生が初めてだ。そういう大人はこれから育つ後世の子どもたちにはとっても大切な存在だと思う。なんだか「正しいことをやっていちゃ、食っていけない」という台詞には聞き飽きた。

 今日までの公開だが、Yahoo動画で「妖怪人間ベム」が無料公開されている。このアニメは教育という観点で非常に大切な視点を与えてくれる。その中で「人として生きるには、正しく生きなければならない」という台詞は印象的だ。このアニメは1968年(昭和43年)10月7日から1969年(昭和44年)3月31日まで放映され、僕が産まれる20年ほど前の作品だが、当時はどのような時代背景なのかわからないが、当時の大人(つまり今のおじいちゃんたちの世代)は何らかのメッセージを当時の子どもたち(今の親世代)に伝えようとしていたのかもしれない。

 まあ、そういうことで、丸山先生が失業しない限り、自分もなんとかなるさと思う。これは実に有難いことだ。自分の人生が保証されたような感覚(もちろん努力なしには成り立たないのだが)。やはり、かっこいい大人は世界に光をもたらしてくれるものだ。自分は後世に対して、はたしてこのままだとどんな土産を残せるのかと、ある時考えたことがあるが、「正しく生きる」という生き様を残すのなら、お金持ちにならなくても、自分の子ども、孫にいい土産ができる。うん、なかなか悪くない。
posted by チャーリー at 18:54| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月26日

シティズンシップ教育と宗教教育

最近、論文の方向性が大体かたまってきた。
題目は「市民が育つ空間デザイン(仮)」とか。

 元々、この論文を書く根本の問題意識は「公共益を考えることができる人材をどう育てるのか?」とう問い。しかし、公共益を調べていくうちにシティズンシップ教育、道徳教育、宗教教育など複数の領域にまたがっていることに気がつく。その中でもシティズンシップ教育は他の2つの領域も包括した広いものであるということで現在採用している。というかただ単に最近人気らしいということと、カタカナ文字を作り出して道徳教育や宗教教育の悪いニュアンスを書き換えている感が良い意味でも皮肉的にも好感がもてる。イメージが悪くなったら会社名を書き換えて存続していく一種のあれだが、そのしぶとさは要は使いようである。

 まあ、冗談はさておきシティズンシップ教育にした理由はちゃんとある。まず知り合いのY君はシティズンシップ教育を「市民としてのあるべき徳」を養成する方向性と民主主義制度をしっかり整えるの2つの流れがあると分析していたが、現時点の日本においては妥当な選択肢だろうが、どちらもそれだけではあまり希望がない。現時点ではこの2つが限界かもしれない。もっとも後者の方は絶対に実現させねばならぬことだが。しかし、僕は理想主義者であるので3つ目を実行しなければならない。それはハンナ・アレントも指摘しているようにカントが『啓蒙とは何か』で述べた自ら考える人を育成することだ。

 つどのつまり、いくらこれと決めた道徳を教え込もうが、制度を整えようが、自ら考え批判する人材が育たなければプラトンの言うように民主主義は衆愚政治に陥る。一つの道徳なんて明日日本がファシズム化したら教える道徳も一瞬で変わるだろうし、いくら制度を整えても結局、権力者のいいようにメディアコントロールされるだけだ。なんつったって今やセブンイレブンにはエロと人が死んだ情報が氾濫し、すでに脳は麻痺状態にあるわけだから。まあ、プラトンはそこで哲人政治を掲げるが、カントはガチンコで「みんな自分でしっかり考えろ!」と言う。いいですね、こういうガチンコ感は好きです。こういう状態が有って初めて制度が生きてくる。もちろん制度の整備は平衡して行わなければならないが。

 そこで、では自分でしっかり考える人材を育成するためにはどうしたらいいのっちゅう話しですが、僕個人としてはその解決策に比較思想・宗教教育にあると考えている(シティズンシップ教育の中の一環として)。『世界のシティズンシップ教育―グローバル時代の国民/市民形成』の中でインドの紹介のとこなんかが良い線いってる。理由についてはまだよく分からない。ただ直観がそう言っている。だから間違いないはずだ。自分の軸をいかにつくるか?自分の軸をみうしなっちゃーいけねーよと思う。そのために比較をする。カトリックも創価学会も資本主義の精神もイスラム、ポストモダンも比較する。それで、良いところは良いと言い、悪いとこは悪いと言い違うことを尊重しあう訓練をしなければならない。結局、だれも現在の資本主義経済の根っこにいかなる思想と宗教観があるのか中学校、高校と教えてくれないし、やることといえば受験対策ぐらいでせっかくの思春期に考える能力の発達を阻害している。

 だけど、これをいざ実行に移すとなると高度な専門知識を持つスタッフが必要だ。おそらく、博士課程クラスの。そこで、このような授業を実施するには専門の研究機関からの講師派遣のシステムにするしかないだろう。

 という感じですが、実はこの論文は「空間デザイン」という趣旨なので、ソフトだけでなくハード的なもののデザインおよびプロセスデザインについて書かなければ将来の職業に直接関連してこない。しかし、比較思想・宗教教育を支援するハードとはまちのレベルでも建物のレベルでもいったいいかなる姿であるのだろうか?実はここで現在行き詰まっている。

 モノを比較するときにハード的なアプローチとしては、1つはミュージアム。まちづくりにはエコミュージアムとして登場していることから可能性はどうか。彫刻やアートなどのモニュメントもそのたぐいか。ただ、國學院の井上順孝先生が指摘するように宗教的なハードものは現在風景化しててリアリティがないとおっしゃってたことからもどの程度効力があるか。
 
 2つ目は複数の機能を有する場所をつくる(by『アメリカ大都市の死と生』ジェーン・ジェコブス著)。つまり、宗教施設を再び別の機能を持つように再デザインする。たしか、アメリカなどでは教会を何か別の遊び場に再利用する流れがあるとかないとか。得体の知れない新宗教などの施設はちょっと怖いが。この考え方は可能性があると思う。そういえばお寺をロックコンサートの会場にするとかもこの流れか。だが、その思想の真のフー(正体)に触れるのにはこれで果たして良いのか。

 3つ目はスイミングスクールのように学校とは別の教育施設を作るとかはどうか?代ゼミthinking schoolとか(←う〜む)。私塾みたいな形式だけど要はピアノ教室や公文教室と対等の位置づけか。案外ネーミングが定着すれば意外にいいのでは?一歩間違えば共産圏の更正施設か。。

 4つ目は海外の人とのルームシェアや寮とかでの共同生活を積極的に推進支援する。必修にしたりして。きっかけとしての異文化接触。一緒に生活していれば思想や宗教も触れることが多いのではないのだろうか。はてさて。同時に上記の教育施設機能も併設したりして。。

 うーん、今日はもう寝ます。結局何を書いていたのやら。
posted by チャーリー at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

最小限住宅

 産業革命後、20世紀を経て現在に至るまで科学技術はものすごいスピードで更新されていったわけでありますが、こと思考、思想の領域においては未だ20世紀前半に提示された考えが十分に練りきらずに、次の思想にある種の“流行現象”であるかのように切り替わってきた経緯があると僕は思う訳ですよ。

 20世紀前半に建築家ル・コルビュジエが投げかけた<最小限住宅>という考えもそのうちの一つであると思います。コルビュジエは「住宅は住むための機械である」という訳ですがこの部分だけ聞くととても人間味が感じられず冷たい感じがしますが、住宅に本当に必要なものだけをどのように組み合わせたら機能的で快適な住まいが出来るのか、その最小単位は何なのかというテーマは今日においても未だ解決されていない問題です。もちろんこのテーマに現在取り組んでおられる方はいらっしゃいますが。

 ですがことの問題はこの<最小限住宅>という単位の管轄範囲が、住宅内だけの範囲ではないといういう点が非常に興味深い点であると思います。コルビュジエの最後はどこであったのか?それはカップ・マルタンの小屋というとても小さな小屋でありましたが、この小屋が<最小限住宅>を意識して作られたのは疑いも無い事実です。しかし、なぜあの場所にたてたのかという問いは<最小限住宅>というテーマに照らし合わせてみると実に興味深い。

 つまり、コルビュジエは<最小限住宅>というテーマを考えたときにあの環境もそれを成り立たせる一要因であると言っているようなモノなのです。しかし、カップ・マルタンの景観はきわめて雄大で美しく、もしこれを<最小限住宅>の基準とするならば、現在の東京に立ち並んでいる住宅のほとんどは基準値に達していないことになります。

 ここで一つの課題が浮かび上がります。<最小限住宅>を考えるにあたって住宅内の空間の基準を考えるのはもちろんですが、その外で最低限の基準を考える試みは絶対に必要なことであると思います。そこには当然景観的で物質的な要因も入るでしょうが、例えば、そのまちに「音楽」というのはどのような位置づけか?それは<最小限住宅>においてそれは必要なのか?どうでもいいのか?「教育」はどうなのか?どんな教育でもいいのか?というように人が”住む”と言ったときに必然的に付随してくる様々なものの存在。それは食べ物であったり、医療であったり。

 このように考えて必然的に浮かび上がるのが<最小限集落(都市?村?)>という考え方。ある集落において最低限幸福に、快適に生活するためにはいったい何が必要なのか?このようなことを今後書いていこうと思う次第であります。

 
posted by チャーリー at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市・建築・地域・教育うんぬん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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